ウィルチェアファミリーチャンネル

当ブログにご訪問ありがとうございます! 【wheelchair family channel 】ウィルチェアファミリーチャンネルです。 車椅子ユーザーでも臆せずパパママになれる社会にむけての情報をメインに発信しております。当たり前ですが、車椅子ユーザーでも家庭を持って子育てができます。 少しの工夫をみんなで共有して大きな愛のある生活を手に入れませんか?

妻が常々思うこと、頼ることのハードル

 

 

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夫♿️は割とできることの多い車椅子ユーザーだろうと思います。

 

大工仕事をするし、

重い荷物も工夫して運べるし、庭仕事も土木作業もこなします。

 

なら、なんでもできるじゃない!

 

という単純な話ではないのが、車椅子ユーザーである彼の生活だろうと思っています。

 

確かに夫はできることが多いと思います。

ですが実際はその“できる”は頑張ればできる、できなくはない、むりをすればできるということなのです。

 

これは有名な、児童精神科医の吉川先生の名言

発達障害の人にはできる事と、できない事と、できるけれど非常に疲れる事がある」

の引用なのですが

 

当てはまるのは発達障害だけではなく、

全ての障害がそうなのではないかなと、個人的に思っています。

 

今日はゴミの日です。

夫はゴミ捨てに出ることができますが、ゴミ捨てに行くというそれだけのために

車椅子を乗り移り、生ごみやおむつの入ったゴミ袋を膝に乗せ

落とさないように袋の持ち手を口に咥えて

スロープをくだらなければなりません。

 

一袋や二袋なら良いのですが

もっとゴミの多い日もあります。

 

一度に膝に乗らない分は、数回に分けて持っていくことになります。

その度にスロープを上り下りするのです。

 

雪が積もると「できない」へと変化します。

 

歩ける人が“ゴミを捨てる“よりも遥かにエッジが効いているのです。

 

これは生活の全てにおいてそうです。

着替え、トイレ、食器を運ぶ、車に乗る、そんなことでさえ

全てが”頑張ればできる“なのです。

 

それはとても気力と体力と時間がいること。

 

それを家族はもちろん理解しています。

理解した上で、夫からのサポートがないと生活はまわりません。

わが家に大人はふたりしかいないのですから。

私だって、完璧ではないのです。体調も崩すし、乳飲み子も抱えています。

 

私も夫に汚いゴミ袋を咥えさせたくはありません。

 

仕事前にゴミ袋を膝に乗せ、ズボンが汚れればまた一から着替えのやり直し。

 

朝6時に起床しても、シャワーを浴びて着替えをして

9時の始業ギリギリになることもあります。

 

私がゴミ捨てを彼に頼むというのはそういう全てをわかった上で・・・でなければならない。

 

ただゴミ捨てをパートナーに頼む、それだけのことなのに

どうしてこんなにも覚悟が必要で、ハードルが高いのでしょう。

 

 

彼と社会生活との間にある摩擦は

間接的に家族にも影響を及ぼします。

 

ただそれは決して”彼のせい“ではありません。

彼をパートナーに選んだ私のせい?それはわかりません。

私の覚悟が足りなかったせいでしょうか?

「わかってて結婚したくせに」なのでしょうか?

 

そうした全てを引き受ける覚悟がなければ、

障害のあるパートナーや、将来障害疾病を負う可能性のある全ての人と

恋愛やパートナーシップを築いてはいけないのでしょうか?

 

人はそう、完璧でなければならないのでしょうか?

 

ですがなんとも残念なことに、

人は完璧じゃなくとも、不完全であろうと

愛し愛される生き物なんです。

 

 

10年前と今とでは社会の目は変わりました。

 

障害がある人が働ける環境がととのいはじめ、

障害のある人が外出しやすい環境がととのいはじめ、

障害のある人が社会に生活していることが認知され始めて来ている今と

10年前とでは

私たち家族の生きやすさは格段に変わっています。

 

それは精神的にも物理的にも。

 

障害のある人が社会に出て、就労や社会的役割をこなすことを期待される一方、

「がんばればできる」の部分に重い負担を強いられて

なんとか回ってる感を感じる時もあります。

 

障害のあるひとが社会で生活するということは、就労の問題だけではありません。

 

障害を個人の責任とし、

「がんばって健常者に近づくこと」を目指す時代は今や、かつて古のものになろうとしています。

 

いつか近いかもしれないし、遠いかもしれない未来、

私が気軽に彼にゴミ捨てを頼める日が、来るのかもしれないし

こないかもしれません。

 

でもきっと来ると信じて、今日を生きるしかありません。

 

その頃にはもう子どもたちも大きくなり、

朝、夫に頼まずとも私がゴミを出す余裕もあるのかもしれないし、

既に私は存在せず、夫はゴミを出し続けることになるのかもしれません。

今より楽にゴミが出せるなら、雪が積もっても彼が困らないなら、まぁなんだっていいか。

 

 

夫婦が共同体である限り、

ひとが社会性を持ち協同して生きていく生き物である限り

障害は、障害を持つ本人だけの不便では

ないのでは無いかなと

何となく思うのです。

 

寒さ深まって参りました。

次男も昨日からハナタレちゃんです。

皆様どうぞご自愛ください。